宮崎の弥生時代 13

「高千穂」と宮崎平野13

瀬戸内地方・畿内との交流

  「弥生時代の半ばから、この地(宮崎)は瀬戸内海の南北両岸地帯、とりわけ吉備地域との間の活発な交流の舞台だった。宮崎県側からみた瀬戸内像や畿内像語る。」という講座の主題にようやくたどり着いた。ここまででもう1時間以上経過している。あせってしまうが、開き直るしかないか(汗)

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  弥生時代の宮崎と瀬戸内・畿内地方との交流についてはオーソドックスに①瀬戸内系土器の流入②石器石材の転換③線刻文土器の流入④区画墓の出現というテーマで説明してみよう。今回はまず①について。
  土器を中心とした宮崎出土の瀬戸内系文物の研究は、古くは故森貞次郎氏の指摘があり、以後鹿児島の池畑氏や愛媛の梅木氏などの業績が積み重ねられ、それらを基礎とした河野氏の集成が近年の到達点にある。今回の講座では河野氏の集成を元に、新たに落ち穂拾いした資料を付加して紹介することにする。

①瀬戸内系土器の流入

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  最初に注目された瀬戸内系土器は凹線文系の土器群だ。矢羽根透かしを脚部に持つ高坏などが代表的だ。これらの土器は伊予地方にその出自を持ち、中期中葉頃から宮崎平野の特に海岸部一帯で多く出土する。矢羽根透かしの高坏を中心に凹線文を口唇部に施す小型の壺が主体を為しているが、まれに大型の壺や、口頸部に突帯を施す甕などが出土することがある。

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  伊予系土器の初見は、中期中葉頃の宮崎小学校遺跡の甕類だ。その後、中期後半から末葉にかけての時期に最盛期を迎え、その時期には宮崎平野部から都城盆地に分布の中心を持ち、高千穂やえびのなどの山間部でもその分布が知られるようになる。後期に入ると出土数が激減し、宮崎平野や都城盆地など、中期の分布中心域であった地域から姿を消す。

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  当初、伊予系の土器に向けられていた瀬戸内系土器への関心は、宮崎の発掘調査の進展に伴い、吉備を中心とする備讃瀬戸地域の土器、あるいは東部瀬戸内系土器にも目が向くようになった。また、土佐地方の特色を持つ壺や甕が持ち込まれていることも判明した。吉備系かと思われる土器の最も古い例は、高鍋町持田中尾遺跡出土の前期末葉前後に位置付けられる多条沈線甕の破片であるが、この土器以外には、今のところ中期後葉に至るまで吉備系土器の出土は知られていない。

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  伊予系土器に対比する形で吉備系(備讃瀬戸、東部瀬戸内を含んだ形で)土器の出土遺跡の時期別分布を上図に示してみた。丸が伊予系土器、三角形ドットが吉備系土器が出土した遺跡である。
  大まかには中期の伊予系から後期の吉備系(備讃瀬戸・東部瀬戸内系)への変遷が見て取れるが、吉備系土器の分布は宮崎平野部に、より限定される傾向が見て取れる。その中でも、後期後葉頃には宮崎平野北部に分布が偏ってしまう。これは区画墓に供献される土器という性格のためである。

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  比較的纏まった出土量を持つ伊予系や吉備系の土器に隠れて目立たないながら、それ以外の地方の土器の出土も、近年知られるようになってきた。例えば安芸や土佐(西南部瀬戸内)系統の土器などだ。分布はほぼ宮崎平野に限られていて、出土量も極わずかである。時期的には伊予系土器とほぼ同時期のものが多い。

・瀬戸内的装飾要素を持つ土器とその分布

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  器形を含めて、形式学的に(搬入、模倣をとわず)明らかに瀬戸内系といえる土器の他に、瀬戸内的な土器装飾が、瀬戸内系土器の流入に先駆けて、あるいは同時期に宮崎の土器に認めることができる。それは例えば櫛描波状文であり、列点文であり、鋸歯文である。東部九州、南部九州の後期複合口縁壺に先駆けて中期前葉頃から壺や甕の胴部に見られる櫛描波状文は、その後の瀬戸内系土器流入の下地を為す現象だと考えられる。中期後半~後期末葉頃に見られる鋸歯文や矢羽根透かし文の背後には、瀬戸内的な祭祀観念が想定できる可能性もある。もしかして、鋸歯文で飾られる免田式土器の土器祭祀にまで繋がる要素かもしれない。列点文は日常生活レベルでの瀬戸内地方との結びつきを知る手がかりかもしれない。

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  中期前葉頃の櫛描波状文は海岸部に集中して見つかっている。中葉以降、瀬戸内系土器の展開に伴って内陸部でも認められるようになる。五ヶ瀬川流域で鋸歯文が比較的多く見られる他は、鋸歯文、列点文共に宮崎平野部と都城盆地に出土の中心がある。

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  中期後半~後期初頭頃の瀬戸内系土器の分布状況を、在地土器である下城式土器、中溝式土器、山ノ口式土器の分布圏に重ねてみると、どうやら瀬戸内系土器の流入は、基本的に下城式土器の分布圏と重なるようだ。特に高千穂やえびの地方への進出はその感を強くさせる。そして瀬戸内系土器の目指す主な方向は、どうやら下城、中溝、山ノ口三者の混在する宮崎平野南部から都城盆地への進出なのではなかろうか。そしてその見据える先は志布志湾沿岸なのか。

・まとめ

・持田中尾遺跡:前期末~中期初頭・・東九州系、北部九州系の環濠集落で下城式土器が主体と前に紹介した。ここで出土した前期末の多重沈線(櫛描沈線)甕が最古の瀬戸内系土器であるが、現状ではその後に繋がらない。

・瀬戸内系土器の進出は、中期後半の時期は伊予系が主体で、徐々に吉備・備讃瀬戸、東部瀬戸内系が優勢になる。 伊予系はかなり広範囲に分布するが、伊予系のかなりの部分と吉備・東部瀬戸内系統は宮崎平野と都城盆地にを結ぶライン上に主に分布する。何らかのルート沿い(交易路?)に集中した可能性が考えられる?

・その他の瀬戸内地方の土器・・阿波、安芸、西南四国系統なども少量入ってくる。
・瀬戸内の装飾要素を持つ土器が見られる・・・分布範囲は瀬戸内系土器とほぼ同じ。自分たちの装飾を要望?現地発注・調達品?
   中期前半~ 胴部櫛描波状文
   中期後半~ 矢羽根紋、鋸歯文(三角文)  
   後期~   櫛描列点文 鋸歯文

・移住(植民)や武力進駐ではない・・・生活具の欠如、土器の影響が在地に希薄。瀬戸内系土器が主として出土する住居跡や集落は発見されておらず、宮崎に世代を超えて根を下ろした感じは希薄。宮崎小学校遺跡の溝出土土器の様相は例外か?そこに交易所が存在した可能性がある。※ 一定期間の駐在の可能性。陸のまとまった集団の影は薄い。ただし、瀬戸内系装飾要素が在地の後期土器に取り入れられる現象は、瀬戸内出自の人間(集団)が日向の地に同化していった可能性も考えられる。

・瀬戸内系土器の出自から、特定の地域(伊予・吉備)を主体として瀬戸内海沿岸各地の人々が共同で入ってくるイメージもある。日向は瀬戸内海の海洋民の交易ネットワークの一部を担ったのか?(海人・・・ 海洋交易集団・・・瀬戸内各地域混成の。) 
                     
※瀬戸内系集団の進出は一方通行か?相互交流だとすれば交易品は何か?・・・・って、もちろん最後は貝に結びつける魂胆なんだけどね(笑)




今回の話は基本的に下記の論文の成果を元に荒っぽく私説を展開したものである。瀬戸内系土器の属性についても「搬入品」「模倣品」などの区別も特に行っていない。


河野裕次「南部九州における弥生時代瀬戸内系土器の基礎的研究」『地域政策科学研究』 (8), 39-73, 2011-03 鹿児島大学

  この論文で紹介されている宮崎県関係の瀬戸内系土器出土遺跡は76遺跡246点。今回の講座の準備ではそれに加えて計116遺跡416点の資料について目を通したが個別に紹介することはしなかった。
  新しく加えた分の資料の解析精度は駆け足で斜め見したために、河野氏の論文所収のものに比べて、相当精度が落ちていると思う。従って、真面目に南九州の瀬戸内系土器の動向を知りたい方は河野論文を参照されることをおすすめする。(ネットからダウンロードできる)
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