宮崎の弥生時代 17

「高千穂」と宮崎平野17

「貝の道」
  南海産大型巻貝であるゴホウラやイモガイなどの貝殻で造られた腕輪類は、弥生時代や古墳時代の権力者の装飾品=威信材として、特に北部九州の首長層に珍重された。
  「貝の道」とは、琉球列島などの採取地から最終消費地である(主として)北部九州に至るまでの交易(加工・運搬)ルートのことだ。 

貝の道2 
木下尚子「南から見た貝の道-二つの交易路のもたらしたもの-」
『南島貝文化の研究―貝の道の考古学』1996年3月、法政大学出版局所収より(着色改変)

  上図は、「貝の道」を解説する場合によく使われる、木下尚子熊大教授作成の模式図だ。北部九州で南海産貝輪を使い始めるのは弥生時代前期後半頃で、西北部九州を経由して北部九州に持ち込まれたことが想定されている。琉球の人々は貝の採取に従事し、琉球各地で西北部九州系や薩摩半島系の弥生土器が出土することから、前期後半から中期前半の時期には西北部九州人が、薩摩半島を介して交易ルートを掌握していたようだ。薩摩半島西岸はその交易ルートの本土側の荷揚げの場(交易所)となっていたようで、薩摩半島西岸の高橋遺跡では貝輪の未製品や加工屑などが見つかっている。貝輪を伴う甕棺墓や箱式石棺墓などに埋葬された人骨の抜歯形式は西北九州に特有のものとされ、この辺りが西北九州人の本土での中継地であり、南海から運び込まれた貝の荒加工場であったと考えられている。一帯では沖縄の土器や北部九州、中九州の土器に混じって瀬戸内系土器も出土していることから、本土各地から貝製品や未製品、貝素材を求めて人々が集まってきたことが想定されている。
  中期後半の時期になると、琉球列島で出土する本土の弥生土器は、大隅半島系の山ノ口式土器や中九州の黒髪式系統の土器が主体となる。これは中期後半以降、薩摩半島が黒髪式系統の土器文化圏に飲み込まれる為で、薩摩半島を交易地としていた北西九州の勢力が薩摩半島から駆逐され、この時期には西北部九州でも遺跡が激減し、西北部九州経由の「貝の道」も衰退していく。南海産の貝は、どうやら有明海を経由して北部九州にもたらされ、一部は瀬戸内・畿内にまで流通するようになったと推定される。

  とまあ、こんな所が、先人の労作を参考にして描き得た弥生時代の「貝の道」の非常に荒っぽい描写なのだが、今回の講座では、要するに、この定説的「貝の道」以外に宮崎から瀬戸内に抜ける脇往還的な「東の貝の道」を想定し、それについて話すのだぞ!という、中々に難しい課題を突きつけられていたわけだ(笑)。


「東の貝の道」の存在を証明するには何が必要か

 「はるか以前の弥生時代の半ばから、この地(宮崎)は瀬戸内海の南北両岸地帯、とりわけ吉備地域との間の活発な交流の舞台でもあったことを解明している。瀬戸内に流入した南海産の貝製品や未製品からみて、この交流は沖縄地域と瀬戸内とを結ぶものでもあったことがわかる。」

 
  というコーディネーターの楽観的、アプリオリな前振りに乗っかって、適当に話をでっち上げれば簡単なのだが、では、宮崎を経由する弥生時代の「東の貝の道」を自信を持って話すには、どんな条件が必要なのだろうか。思いつくままに挙げてみよう。

①宮崎における確実に弥生時代に属する南海産貝素材或いは貝の半製品(加工屑でも良い)の出土。
②瀬戸内で見つかる貝製品の製作技法が、北部九州を経由してもたらされた貝製品の製作技法と異なっていて、かつ、加工前の貝素材があること。
③宮崎における瀬戸内地方に関係する遺構、遺物の出土
④瀬戸内地方における宮崎に関係する遺構、遺物の出土

⑤南島における宮崎、あるいは瀬戸内地方に関係する遺構、遺物の出土

①については大萩遺跡土壙墓出土の唯一例を除いて、貝関連遺物の出土は知られていない。大萩例もイモガイ製貝輪という製品なので、最終消費地の証明以上の証拠にはならない。又、この遺跡は後に説明するように、肥後勢力との結びつきが非常に強く、その方面からの貝輪入手の可能性が高い。ということで、貝素材の交易の中間点だということを直接裏付ける資料は見当たらないのが現状だ。

②に付いては岡山市の南方遺跡出土の資料が、どうやら重要なものになりそうだ。「貝の道」の提唱者である木下尚子氏は南方遺跡の貝素材や独自の貝製品製作技術の存在について述べておられ(岡山市埋蔵文化財センター講演資料「南方遺跡と弥生時代の『貝の道』」熊本大学文学部木下尚子)、弥生時代前期からの、北部九州を介しない南海産貝素材の流通と東九州、南九州勢力の介在を、どうやら想定されているようだ。(南方遺跡の資料が知られる以前は、弥生時代終末以降に種子島を中継して瀬戸内、畿内へ訪いたるオオツタノハの道を想定されていて、日向、豊後はその交易経路に比定されていた)

③~⑤は交易ルートの存在する可能性を保証するものであり、①が交易品の証明になる。
③については
宮崎の弥生時代 13宮崎の弥生時代 14宮崎の弥生時代 15で説明したとおり、既に多数の調査例がある。
⑤については必須では無いが補強材料としてあったほうがベターだ。但し、現在までの所、発見例はない。


  次に瀬戸内地方における宮崎に関係する遺構、遺物の出土について見てみよう。

kai4.png

  四国北岸で下城式土器の出土は見られるものの、南九州系の土器は殆ど知られていなかった。かって、1970年代に高松市の瀬戸内海歴史民俗資料館で、入来式とおぼしき海揚がりの甕の破片を見た記憶があるが、発掘調査で出土した資料については、松山市の文京遺跡の例と岡山市の南方遺跡の2例しか知られていない。
  上の図は南方遺跡から出土した入来Ⅱ式甕と下城式壺だが、同遺跡ではこの他数例、入来式の口縁部の小破片が出土している。遺構に伴うものではなく旧河道や包含層からの出土だ。この甕は胎土に黒雲母を含むという大隅半島~都城盆地で製作された土器の特徴を持っている。下城式の壺については出自が解らないが、本来の出自地である豊後からもたらされたものかもしれないし、あるいは宮崎平野からという可能性もある。この下城式壺と入来Ⅱ式の壺が同時期に南方遺跡にもたらされたものなら両者の分布の重なる宮崎平野部から運ばれた可能性が高くなるのだが、残念ながら下城式壺の方が前期末~中期初頭ころに属する雰囲気を持っているので、中期前半頃の入来Ⅱ式とは若干の時期差がある。
  瀬戸内系の土器は、宮崎を中心に南九州で結構な量が出土するのだが、反対に南九州系の土器は瀬戸内地方では殆ど見られないのが現状だ。従って、瀬戸内と南九州との交流は、瀬戸内からのほぼ一方通行だったことがわかる。


南東
木下尚子「南から見た貝の道-二つの交易路のもたらしたもの-」
『南島貝文化の研究―貝の道の考古学』1996年3月、法政大学出版局所収より(着色改変)

  瀬戸内から目を転じて貝の採取地である琉球弧の方を見てみよう。中期も前半段階までは、薩摩半島を中心に分布する入来式土器が北部九州系の土器に混じって琉球列島の各地に運ばれていることが知られている。つまり、入来式という土器を指標にすれば、宮崎を挟んで琉球列島と瀬戸内が繋がっていることが解る。ところで、中期後半には大きな変化が起きている。上図は、中期後半から後期にかけての九州本土系の土器分布図だが、この時期に琉球列島に運ばれている九州本土の土器は薩摩半島に分布域を広げた中九州系の黒髪式系土器ではなく、殆どが大隅半島系の山ノ口式土器なのだ。このことを琉球列島から本土に南海産の貝を運ぶ担い手の変化だとみれば、貝交易路の幹線が依然薩摩半島経由だったとしても、ルートの一部が種子島を経由した大隅ルートに転換した可能性を示すものとは言えまいか。現時点で、山ノ口式土器が瀬戸内地方で見つかった例はないけれど、一方通行とは言え、まさにこの時期から瀬戸内系土器の南九州への本格的浸透が始まり、宮崎平野と都城盆地に強く嵌入し、志布志湾沿岸に分布の先端が達しているのだ。
  道は繋がっている。あとはそのルート上・・・志布志湾上陸後から都城盆地を経由して宮崎平野の海岸に至るどこかで、貝素材のデポなり荒加工地が見つかれば、「東の貝の道」は完成する。

kai3.png


  「東の貝の道」を大胆に想定すれば上の図のようになるのだろう。青い矢印で示した「東の貝の道」は、種子島で本道である薩摩半島経由ルートから分岐して志布志湾の志布志市辺りに上陸し、都城盆地を経由して、恐らく大淀川の河口あたり(宮崎小学校遺跡などがその有力候補地だ)から再度海路をとり海岸沿いに北上する。豊後水道を一挙に抜けて(豊後はもしかしたら瀬戸内勢力と敵対関係にある?)伊予に至り、後は瀬戸内海航路を行けば吉備だ。

高吉B中溝2

  恐らく、中溝式の概念は再検討される必要があるのだろうけど、近年大隅半島の発掘調査が進展していく中で、一条の刻目突帯を施す貼付口縁の「中溝式」甕が志布志湾沿岸部にまでその分布を広げる見通しが立ってきた。図示したのは、志布志市の高吉B遺跡の例だが、大隅的口縁要素を持つ「中溝式」(山ノ口式との折衷型とも呼ばれる)甕の存在は、志布志湾に陸揚げされた南海産貝の都城盆地を経由する陸路輸送に、山ノ口式土器集団と共に中溝式甕を持つ集団が関係していた可能性を示唆するように思われる。

「東の貝の道」まとめと課題

・中期後半の琉球列島出土本土系弥生土器は南九州系の土器が圧倒。・・・・・入来・山之口勢力の関与
・瀬戸内で出る入来はⅡ式が主体だが南九州で出土する瀬戸内の土器はその後にピークがある。・・・・土器の進出時期にタイムラグがある。
・後期の後半以降免田式土器の出土・・・免田系集団が貝交易に関与?
・下城式土器と入来式土器が交錯する地域は宮崎平野の大淀川下流域(南方遺跡の下城と入来の同時性は低いが)
・瀬戸内系の遺物は南島から出土しない。従って交易地は九州本土に設定される必要がある。それはどこか?・・・・恐らく志布志湾沿岸!・・・・中継地として都城盆地と大淀川河口。
・中溝式土器と山ノ口式土器は志布志湾沿岸から宮崎平野大淀川下流域にかけて分布していて、両者が本土陸地部分の交易・運搬に関係していた?

※最初はこちらから入来勢力の極一部が抜け荷風に瀬戸内に貝交易に進出して(中期前半:瀬戸内出土の入来式)、それが瀬戸内の連中に乗っ取られた(中期後半:瀬戸内系土器の南九州進出)のかも・・・免田(肥後)勢力が背後に?

課題

・宮崎に貝、貝輪製作址、製品、未製品が無い(例外:大萩5号墓:イモガイ?)・・・志布志湾沿岸での可能性
・瀬戸内・畿内に貝輪出土がそれほど多い訳では無い。
・交易の通過地だとしても、何らかの見返りが必要だった可能性。その場合の見返りとは。
 瀬戸内系の土器か或いは阿波系石材の瀬戸内系石器かそれとも・・・・・?
・瀬戸内勢力の進出形態は?・・・ ※移住でも征服でも無い・・・交易所の確保?

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